忍者ブログ

潜在意識研究所

癒し、潜在意識浄化、悟り、引き寄せの法則のまとめブログ

釈迦の悟りの解説、実感すること、今を認識すること。


youtube上で釈迦の悟りを解説している動画がいくつかあります。この記事では釈迦のみた悟りについて解説しています。
雨宮大慈《釈迦の悟り / 前編》
 

雨宮大慈《釈迦の悟り / 後編》



悟りとは、究極の合理性です。合理性の究極です。それは、もはや、合理性でないというか、合理性と言える、極限のところで、合理性というしかない、というレベルで、わずかに形をたもつ、合理性の形跡です。

悟りとは、「真実は宇宙の存在だけ」ということを認識することです。自分と他人の境界のいっさいを一時的に消失することです。


悟りとは「すべてのものが同じように重要だったという認識に立つ事」です。なんだ、そんなことか、わかったよ、と感じると思います。

悟りとは、すべての説明をすべてし尽くした状態です。説明とは、合理性ですが、極限の合理性とは、もはや合理性という定義にははいりません。《合理性らしきものだが、合理性らしさをもつもの》です。


参考:苫米地英人《釈迦の悟った内容》

---


まず前提として、人間は

(1番)概念、知識、イコール《そういう考え方もあるよね》という構造的、情報的知識、と

(2番)経験、《実体験》、リアル、リアリティ、今、今を実感すること、

というものを、明確に分けて頭の中に持っています。


そして、(2番)、今、今を実感すること、実体験、経験、真の知識、血肉、人生、は、直接に、心、魂、潜在意識と関係しています。
-------


たとえば、
世界の中には数兆円の財産を持っている人がいて、その人は買えないものはない。とか、分子の世界ではニュートンの運動方程式ではなく波動関数運動方程式が基礎として成立していて、運動状態確認は確定的にできない、などは、

前者、知識、概念、《そういう考え方もあるよね》側です。

たとえば、《世界中で買えないものはない》って実感、感覚、はこの記事を読んでいるあなたは実感ではないはずです。あなたがビルゲイツでない限りは、多分、そうなんだろうなあ、という《理性による言語理解》です。

たとえば、人間の体は100000..(0が36個くらいかな?続く)...0個の分子でできている、これが現代物理学による一つの見地です。その知識をもっている人は大半だと思いますが、それを実感している人は、ほとんどいないと思います。

悟りの核心はそのところにあり、そのことを知る、という知恵を得ること、が悟りの重要なステップのひとつです。



じゃあ、悟りとは、何なのか。

悟りとは、悟りとは「すべてのものが同じように重要だったという事実を実感すること」です。


これがどういった精神の状態であるか、なんとなくでも見えてきたでしょうか。

たとえば、なんでもいいんですが、たとえば、数学上の有名な未解決問題、そこまででなくてもいい、ある程度の難しさの、高校の数学の問題、とかがいい、

その、具体的な数学の問題があるとして、それがね、大学の入試問題で、難易度ABCDでDなんだ〜、むずかしいなあ、ってのと、

それを実際に解こうとしてみて、ノートとかメモ用紙とかボールペンとか鉛筆とかつかって。
実際に解こうとしてみて、問題をしっかり読んでみて、考えてみて、うわ、これすっごい難しいじゃん、これ解けるやつ本当にいるのかよ。って思うこと、

そのふたつは、明確に、違います。大人が仕事をして稼いで生活していることは日本では小学1年生でも《知って》いますよね。でも、彼らが仕事についてわかっている、と言えると、大人であるあなたは思いますか?。

実際に、何年も働いた、社会の中で働いて、《本当にいろいろ説明できないくらい本当にいろいろあって》、働くということについて、《知って》いるわけです。


さて、悟りとは、ということをもう一度いうと、悟りとは「すべてのものが同じように重要だったという事実を実感すること」です。


普通、悟りについてあまり知らない人や、実際に研究していても深く理解していない人は、悟りを、《一つのアイデア》として考えてしまっています。「まあ、そういう考え方もあるよね」というふうに、誤解してしまっている。



悟りとは、《本当にいろいろ説明できないくらい本当にいろいろあって》、《すべてのものが同じように重要だったという事実を理解した》状態のことを言います。


重要なのは、悟りが、一瞬か、数分間か、数時間か、数日、のあいだしか成立しないという事実です。



雨宮大慈「悟りは体験ではなく、態度」



悟りは《アイデアでなく実感》であるので、それは、継続しない。経験したという観念、記憶、経験値は継続するが、実感というものは時間的に継続はしない。これは、心が、《その今》しか存在しないからです。今が、心であって、それゆえに、たとえば《今今メソッド》などは成立するわけです。


悟りとは、そのことすらも理解するということです。言い換えれば、心の理論について学んでしまった、ということです。

私は医者ではないですが、わかりやすさのためだけに、例にださせてもらいますが(お医者さんごめんね。)、医学、手術というものは、本で読んで識れるものではないでしょう。
じっさいに、何千件も、手術して、それで身につくものでしょう。

しかしね、たとえばですけれど、その人が歳をとってしまってね、80歳とかになって、もう隠居してたとする。今はもう何年も手術も患者も診ていないで、庭の農作業と、小学生の孫の遊び相手をして日々を生活している。

たとえば、その人が、今、その人のそのときの視点で、彼の仕事についての知識を、どう見えて感じられているのか?

それは、その認識は、現役バリバリの今の若い大学病院か市中病院の緊急外来とかで一週間に10件も20件も手術するお医者さんとまた違うはずです。おそらくは違う視点にいまの心があるはずです。人の心は今を生きることしかできません。過去に存在することはできないのです。


つまり、いいかえれば、実感は、消滅してゆく。だから、真の悟りは、一瞬か、数分間か、数時間か、数日、のあいだしか成立しません。


そして、悟りとは、この内容すらも軽く含んでいます。つまり、それくらいの内容はぶっちゃけ言えば基本のキであって、悟りとは、心の事実についてすっかりすべて学んでしまったよ!というある種の卒業だということです。

悟りを包括的に全体説明する試みは、歴史的に、ほんとうに多くの誤解を生んできました。


また、悟りは、いろんなこととイコール、という面白い性質があります。

たとえば、仏教でいう《色即是空、空即是式》という内容、その言葉が正確に指す内容、ともイコールです。


《自分は実在ではないことに気づく》という言葉が指す内容とも、イコールです。《ここで実在している意識や身体は、自分ではなく宇宙であることを知る》ということと。

(参考:《yahoo知恵袋、釈迦が悟ったものはなにか?》。ただしこの人は完全に正確な説明をできてはいないことを指摘しておきます。)
-------



しかし、ぶっちゃけ、本当の本当のことまで行ってしまえば、悟りはいまの宗教としての仏教とすら関係がありません。悟りは、理念体系、なにかのスタンスに基づいた視点、そういう虚飾すらすべてかけ離れたところにある《一つの目》にすぎないからです。


悟りを完全に正確に説明している雨宮大慈の言葉を紹介します。

雨宮大慈「うん。よく救世主というか、偉大な聖者というか、そういうものっていうのはさ、

一つの時代に一人いるとか
さ、いろんなこと言われるでしょ。それはサットグルとかなんとかいう(笑)。
いいじゃあないか。そんな固いこと言わなくても。うん?何故ならね、救世主っていうのは人間を、全ての人間

そしてこれをこの服を表現しているその元のものだ。救世主っていうのは人間だよ。人間の中に救世主がある
んじゃあない。

救世主の中に人間やいろんなものがあるんだ。命たち。だから『救世主は全ての場所と時間を通
じてただ一人しかありえない』うん。全ての場所と時間を通じてただ一人しかありえないんだ。

(・・・中略・・・)
(救世主っていうのは、)何かこの世の果てまで行き着いた人、それを指すんじゃあない。救世主っていうのは、今ここにいる君達すべてだ。


悟りは、瞑想と深く関係しています。というか、深く関係しているというか、瞑想=悟り、といってもいいです。

つまり、悟りとは瞑想と完全にパーフェクトに=(イコール)であって、そのことを知ることすら悟りの内容の一部分に含まれています。

雨宮大慈「冥想それ自体というのは、完全にその人をその人自身に自覚させているということを確認しているものだ。であって、それは全くカラーがない。どういう風に生きなくてはいけないということを全然与えてくれない。

それは宗教でさえな
いから。もし宗教なら、宗教的人生を生きたいとか生きなければならんとなるかもしれない。そうすれば、いろんなそれらしい姿というのを選んでいかなくちゃあならない。

だけど冥想そのものはそうじゃないんだ。だから冥想から宗教
家になる人もいる。冥想から詩人になる人もいる。冥想から遊び人になる人もいる。冥想から武人になる人もいる。冥想から政治家になるやつもいれば、冥想からパン屋になるやつもいる。冥想から乞食になる人だっている。

ただ冥
想というのは、完全にその人間というのが絶対そのものである、絶対というのも愚かなぐらい絶対そのものであるということを確認させるもの、そしてそこから自然に流れ出して彼自身の人生を歩ましめるもの。ただその限りにあるだけなんだ。あとどのような生き方をしようともう全然関係ない。それはその人自身が持って生まれた本性。

(・・・中略・・・)

だから冥想の何々、という
風になるわけ。冥想のパン屋さん。冥想のおまわりさんとか。」
(《総合瞑想部門》より。)
--------




(1番)、経験値、知識、観念、概念と、(2番)、実感、血肉、人生、今、リアルを混同して理解している状態では、悟りを知ることはできません。

いいかえれば、たとえば具体的にこの人はさとっているのか、いないか、という《問題設定》はすべて《程度の問題》になってしまう。

さらにいえば、ある具体的なだれかが、その人が悟っているか、という確認問題、も無意味です。その問題設定の無意味さ、それがどういう意味内容をもっていてどうしてナンセンスと言えるかを理解することも、悟りは含んでいます。


ネット上の掲示板に悟りの方法論だけは書かれていたので紹介します。参考にしてみてください。
不思議な話BBS / 俺が統合失調症を発症した時の話するの続き
PR